信用金庫というもの

信用金庫の成り立ち

1951年に制定された信用金庫法に基づいて会員が協同組織を担う地域密着型の金融機関が、信用金庫です。信用金庫の原型は、一説では、19世紀の英国・マンチェスター地方の共同組合運動ではないかと見られています。詳述:マンチェスターの知られざる魅力|英国政府観光庁


産業革命が急速に進んだ当時の英国では、その結果として貧富の格差が拡大し、社会不安を抱えていました。そこで労働者たちが相互に助け合いながら安定した生活が送れるという理想を求める運動が起きました。その社会運動は、構成員が協同で物品を安く購入したり販売したりして、お金を融通したりしていました。


日本では、明治維新を発端として急速な近代化が進み、銀行は、地方で集めたお金を都市の大企業や土地の投機に充てたのでした。それで、地方の農民や中小零細企業は融資が受けられずに困窮に追い込まれ、地方の地域社会は貧富の格差が拡大し、疲弊していったのです。その結果、社会は不安定化しました。


明治政府はこのような資本主義の反転によってもたらされた弊害を解消するために独国の信用組合を参考に、営業地域などを限定した協同組合による金融機関を創る必要に迫られたのでした。1900年に産業組合法が制定されます。この法律に基づき、全国各地の地主などが中心になり信用組合が誕生したのです。


更に産業組合の事業について、信用、販売、購買、利用の4つを柱にし、それが分化して現在の生協、農協、そして信用金庫の元となったと言われています。農林漁業などの枠を超えて「共存共栄」、「相互扶助」を理想に掲げ、また、新渡戸稲造などがこの産業組合運動を後押ししました。


しかし、産業組合法の施行後も、産業組合は会員でなければ、組合のサービスを享受できないなど制約が多く、都市部の中小商工業者などの生活は依然、厳しいままだったようです。1917年、産業組合法の一部が改正され、そして、1943年には市街地信用組合法が制定されます。


終戦後、GHQにより、旧市街地信用組合は中小企業等協同組合法により信用協同組合となりました。しかし、同法は、それまで着実に進展してきた市街地組合法に制約を設けるものであったために、経営理念などがバラバラな信用組合が林立します。


しかし、信用協同組合は、それらと十把一絡げされることを嫌い、新たな金融機関の設立を要望するようになりました。そして、1951年に信用組合法が制定されたのです。こうして、現在の信用金庫が誕生することになりました。


2013年、金融庁は、信用金庫などが取引先企業や海外子会社に直接投資することを解禁します。これは、メガバンクや外国銀行からの借り入れが困難な中小企業の海外展開をサポートするためです。しかし、信用金庫などは、海外に支店がないために現地で融資などができないという問題は残されたままです。このように地域密着型の金融機関として発展してきた信用金庫でしたが、1990年頃から合併が多く行われ、更に金融ビックバン以降、元本保証のない投資信託を扱う信用金庫が増えました。